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朝青についての説明はありましたが、そもそも朝青が結成されるまでの説明はありませんでした。在日朝鮮人の発生から朝青結成までを追って書いてみます。

-在日朝鮮人とは?

在日朝鮮人とは過去の日本帝国主義による植民地統治によって日本に『徴用』や『徴兵』によって日本に強制的に連れてこられた方や過酷な略奪によって生きるためにしかたなく日本に渡ってきた朝鮮人のその子孫たちです。

日本は朝鮮侵略の機をうかがい1876年に「江華島条約」を強要し朝鮮の自主権と民族的利益を蹂躙しました。

私たち在日朝鮮人は1910年まではわずか790人しか日本にいませんでした。

1905年に「乙巳5条約」、1910年に「韓日併合条約」の締結により、朝鮮(大韓帝国)は国権を奪われ日本の植民地となりました。

日本は「土地調査令」(1912.8)、「山林令」(1911.6)、「工業令」(1915.12)などを通して朝鮮の土地や資源を奪っていきました。

 

-3.1人民蜂起

日本帝国主義は、「武断統治」を強行し、人々の生活を圧迫しました。生活が苦しくなっていく過程で人々の鬱憤はどんどん高まっていました。

1919年に3.1人民蜂起が決起されます。

皇帝であった高宗の葬儀をきっかけに全国で一斉に示威闘争が展開され案した。1年近く継続されたこの蜂起を、日本帝国主義は憲兵隊や警察などあらゆる軍隊の力を通じて弾圧しました。多くの方が逮捕され、また命を奪われました

 

-強制連行

日本帝国主義は戦局が長引いていく過程で朝鮮の青年や少年少女たちを「斡旋」「職業紹介」の名を借りて日本に引っ張っていきました。

1938年5月には「国家総動員法」を、1939年10月には「国民徴用令」を発布しより多くの同胞たちを日本各地の軍需施設や工場に動員しました。

日本に連れてこられた朝鮮人労働者の数は大蔵省管理局(当時)は1939年から1945年の間に72万4千人余りだとされていますが、研究者の間では150万人を超えるという指摘もあります。

 

―同胞の暮らし

植民地統治の結果、人々の生活は苦しく、生きる糧を求めて多くの同胞が日本に渡ってきました。

植民地統治下において日帝は朝鮮人の民族心を抹殺するため、≪皇国臣民化≫政策を実施し、≪内鮮一体≫、≪同祖同根≫という考えを植え付けました。そして朝鮮語や文字、名前まで奪いました。

1945年の解放直後は推定で240万人ほどが日本に住んでいたといわれています。

 

-祖国解放

 

1945年8月15日に日本の敗戦により、朝鮮は植民地からの解放を迎えました。

解放をただ待っていたのではなく、朝鮮人たちは日本各地の炭坑や鉱山、工場、軍需施設などで集団ストライキ、集団逃走を通じて戦い軍事戦略物資を作るのに少なからぬ影響を与えました。それ以外にも留学生、文化人、芸術家、女性運動など各階層ごとに戦いを行いました。

 

-朝青の結成

在日朝鮮人たちは8月20日に「関東地方朝鮮人会」を結成するなど、各地に自分たちの組織を作っていきました。

1945年10月15日には在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成されました。

 

この時初めて朝青の前身となる「朝連 青年部」が組織され、その後「在日本朝鮮民主青年同盟」、「在日本朝鮮民主愛国青年同盟」を経て現在の朝青が1955年8月1日に結成されました。

 

-民族教育

解放後、2度と植民地生活を繰り返してはならないという想いから、今後祖国へ帰国することをみこして、子供たちに自国の言葉や歴史、文化を教える必要性がでてきました。

日本の各地に国語教習所が建てられ、教材を自前で調達しながら民族教育を開始しました。

1946年4月より体系的に初等教育を実施し、中等教育、高等教育に至る体系を立てていきました。

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